2019/08/01 21:54
私は、2008年から特定非営利活動法人ShienTokyoという名の小さな奉仕活動を行なって来た。発足時はグローバル化という流れの中にあり、物質面で豊かになった日本人が、心の豊かさを渇望し、ボランティア活動を行なったり、スピリチュアルに目覚めたりというブームが起こっていた。もっと多くの富や名誉を求める人、内面の充実感を得たい人、求める物や事に選択肢がある時代だった。これは、たった11年前のことだが、今、時代は大きく様変わりした。日本に生まれて本当に良かったと、この国を信頼出来た時代は、過ぎ去ってしまったのだろうか?
2006年夏頃に遡る。私は、人に嫌われるのが怖かった。だから行動に制限を掛けていたし、自分を偽り周りに合わせて生きていた。人の目を気にして生きていた。そしてある時、魂が悲鳴をあげてしまった。それは身体から脂汗が出て、涙がとまらないといった症状だった。呼吸も苦しくなり、もう生きていけないと思った。そこから自己探求が始まった。
ハワイ島のスピリチュアルツアーのような旅に衝動的に参加して、いっぱい泣いて、今まで出逢わなかった人たちと出逢い、心の事、身体の事、スピリチュアルな事を沢山体験し別人のようになった。
フラも踊った。新しいことは、それを一生懸命習う期間は目標があって楽しい。でもそれは与えてもらう楽しさだから、その楽しさや新鮮さがずっと続くわけではない。メンバーが集まると、自然にお披露目していこうよ!ということになり、それにはお揃いの衣装が必要になるわけで、自ずと誰か作れる人はいないのか?となった。白羽の矢は私に当たった。自然とそうなる流れになっていた。私は、ずっとアパレル業界で働いてきたが、その当時仕事も辞めてしまっていたので、それを一挙に請け負い、「友達のよしみ」という苦しみを背負うことになった。独身でアラフォーだった私は、頼まれると断れない苦しい偽善者だった。人に嫌われたくない!という思いで、一生懸命裏方をやった。
2007年、仏教教祖の教えの元、「奉仕」を学んだ。「全てを出し切って、利他に生きなさい!」と。そして参加したボランティア活動で、カンボジアの手織りシルクを織る村を紹介された。織り手は、非常に貧しく、20年以上に及ぶ内戦で傷つき、粗悪な布を織っていた。私は、誰かが助けなければと思い、ならば自分がやるべきではないかと思った。教祖は、私に「フラは辞めて、ここで頑張りなさい」と言った。私は、フラの衣装を作ることを離れ、カンボジアの手織りシルクと向き合うことになった。私は、自己犠牲をしてでも正義感を貫く苦しい偽善者となった。
2008年4月、NPO設立。私一人が専任で、生糸と織手の工賃を捻出する為に休みもとらずに働いた。継続支援をする為、助成金に頼らず、買上げたシルクを服に仕立て、手作り市に出店したり、チャリティイベントを行って協力金を集めた。得る収益は、全てNPOに入れ、年に2回のペースでカンボジアに渡り、織り上がったシルク反の工賃を払い、生糸を買い次の仕事を依頼するという流れを繰り返し行った。協力金を集める際には、目に見えない存在のサポートが沢山あった。お客様は神様ですと言った人もいるが、そのようなお客様が現れることが度々あった。カンボジアで資金が足りない場面があり、「神様、どうぞ必要なら私の資金をお使いください」と祈ってカードを使ったところ、帰国直後の催事でそれに相当する額が戻ってきたこともあった。そんなこんなで、見えない存在のサポートを受け続け、10年以上継続支援を行うことが出来た。道なき道の崖っぷちを歩み続けることが出来た。
多くの駅にエレベーターが設置されていることや、手作り市があちらこちらで開催され、手作りの物を好んで買ってくださるお客様が徐々に増えて行ったこと、布が手織りなのでネップやキズが多かったり、色ムラがあったりしても、それが味よね~と、むしろ喜んで見てくださるお客様が徐々に増えて行ったことも、後押しとなった。
手作り衣を通して、沢山の方と出逢うことが出来たが、この取り組み自体に関心を寄せてくださる方は、ほんの一握りに過ぎないと思っている。まだやってたんですか!などと言われると何とも言えない気持ちになる(トホホ…) あまり関心を持たれないこの取り組みだけれど、「情けは人の為ならず」とはよく言ったもので、巡り巡ってその恩恵は自分に返って来ている。例えば、私の場合、目的が自分の私腹を肥やすことであったならば、おそらく自分の手作りの服をここまで一生懸命に販売することは出来なかったと思う。偽善的かもしれないが「利他」を目的としたからこそ頑張って売ることが出来たし、時が経つにつれ、企画制作から販売までを一人でやることが当たり前に出来るようになった。無理をしたこともあって、金融公庫に借金を返しているが(汗)、収益活動は、自分の意志で行うことが出来ている。そして、いつの間にか人に嫌われることなど全く怖くなくなっていた(笑)
昨年の前半は、自分の限界と言えるほどにイベントを入れ、秋の出張に向けて奔走した。しかしながら、カンボジアでの監督者の報酬を大きく負担しなければならなかった事がシワ寄せとなって反のオーダーを休止せざるおえない状態になった。そして、時を同じくして、日本がおかしいことに気が付いた。私はYouTubuを聞きまくり、RAPT理論に出逢った。むさぼるように対談やブログ、御言葉を聴いた。この世が、真実からかけ離れている理由と真実を学ぶことが出来ると感じたからだ。そして、どこまでも善と悪を割く、理路整然とした考え方に引き寄せられた。
ブログをシェアした友人からは、愛を感じないと言われたが、果たしてそうだろうか?世の中に無責任で曖昧な耳触りの良い言葉を語る偽善者が沢山いることが浮き彫りになるほど、真実をついているのではないだろうか?世の中では、選挙演説を聞いて投票したりするが、一時の演説を聞いて、また経歴を見て、その人がどういう人か本当に知ることなど出来るのだろうか?イメージ戦略というのに騙されるのが落ちではないだろうか?イメージに翻弄される人が多いから社会はこれまで誘導されてきた事にもう気づくべきではないだろうか? 私達は、今このインターネットが普及した現代に、自分自身でしっかり追求し、真実を見出していくことが可能となった。時には、実体験を通してしかその物事の真意を判断出来ないこともあると思う。しかし、影に潜んでいる嘘をことごとく暴いて、善と悪をしっかりと判断出来る目を一人一人が養って行く必要があるのではないだろうか?さもないと、巧妙な詐欺に引っかかってしまう、今はそんな残念な時代だ。
RAPT氏の考え方の源は「聖書」にある。西暦はキリストの誕生の年を元年としていることを今一度踏まえ、この世の中を見直してみることは、多くの人にとって善悪を知る近道ではないかと思う。私の場合、カンボジア支援を地道に行なって来た結果、ここにたどり着くことが出来た。RAPTブログと出逢って10カ月、今までに学んだ何よりも大切なことを、学ぶことが出来ている。誰もが、今までやって来たこと全てが報われる生を生きられる狭き門。。。
最後までお読みいただきありがとうございました。